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2008年5月17日 (土)

やらまいか精神

  
 
先週の浜松西高校訪問の際に、学校が紹介された新聞記事の切り抜き集と、浜松信用金庫が発行した雑誌「イジャ」をいただいたので、きょうはのんびりと目を通した。
「イジャ」にも、浜松西校のことが紹介する記事があって、ここは県内初の公立の中高一貫校として注目されている。
 
  
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ほかに、「浜松今昔物語」という特集記事があって、これがとてもおもしろかった。
特に、浜松の産業を研究しておられる静岡文化芸術大学の坂本光司教授の記事だ。
 
浜松が今のように発展した理由は、
かつて浜松県が静岡県に合併された時に、「なにくそ、今に見ていろ!」「県庁はなくても、産業力はオラたちの方が上だ!」という反骨精神がむくむくとわいてきて、それが、自らやってみよう、誰かにやらせてあげようという、積極果敢な「やらまいか精神」として今日まで続いているから、
とのことだ。
 
そういう精神的な土壌の上に様々な条件が重なって、浜松は独自の発展を遂げた、そうだ。
 
その様々な条件とは、
1. よそ者を受け入れる開かれた市民性
2. 大学の支援
3. 地元財界や行政のリーダーシップ
4. 地域金融機関のサポート
とのこと。
 
う〜ん
 
うなったね。
 
よそ者を受け入れる市民性については、浜松地域で起業したベンチャー企業の創業者のうち20〜25%が浜松地域以外の出身者。他の地域では、せいぜい数%であるとのこと。
ベンチャーに限らずヤマハ、浜松ホトニクス、などの大手企業も創業者は他地域出身である。
 
米沢では、他地域出身者を「旅の人」と呼んで区別するのとは大違いである。
 
また、静岡大学工学部(旧浜松工業専門学校)の存在が大きく、テレビのブラウン管は当時助教授だった高柳健次郎氏が開発したし、ホンダ創業者の本田宗一郎氏が金属学の基礎を学んだのは有名だ。
 
米沢には、山形大学工学部があるけど市との連携は進まず、利用すべきなのにその気配すらない。
 
大正時代には米沢高等工業学校(現・山形大学工学部)の秦逸三教授が日本で初めて人絹の生産に成功。米沢市に帝国人絹株式会社(現・テイジン)が創設された。
しかし、米沢はもともと絹織物の町、人絹などが普及するとたいへんなことになると市民が協力しなかったので、会社が移転したということだ。
いろいろ説はあるけどね。
  
財界や行政のリーダーシップという面では、浜松ではトヨタ創業者の豊田佐吉氏が自動織機を発明した際、その販売を浜松商業会議所(現浜松商工会議所)が支援したし、静岡県立工業試験場浜松分場などが地元織機メーカーに対して積極的な技術指導を展開し、スズキやエンシュウなどが発展する礎を築いた。
 
米沢市内には、山形県が設立した有機エレクトロニクス研究所があるけれど、米沢市は積極的に利用しないのが、もったいない。
 
金融機関では、明治時代には静岡県内の金融機関の6割に相当する54もの金融機関が浜松に集中していて、起業家へ積極的に融資したそうだ。
一方、山形県内でダントツでいちばん大きい山形銀行は、ベンチャーや中小企業に「冷たい」との評判で、県内ではなかなか中小企業が育たないのだ。
 
 
坂本教授は、浜松は国内でも有数の都市になったけど、今後も高い目標を掲げ、挑戦し続けることが必要である、と締めくくられている。
 
 
 
発展する町、しない町の違いが明確に見えたね。
相田克平市議、なんとかしませんか。
 
 
 
 
 
 
 
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