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2022年3月25日 (金)

Yoshi

      

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この時期になると思い出します。

  

38年前の3月下旬、

早稲田大学理工学部応用化学科を首席で卒業し(ウソです)、

日本化学会春季大会で無事発表を終え(無事?)、

恩師の故土田英俊教授と渡米しました。

私にとっては初のアメリカです。

最初に降り立ったのは、ちょっと荒涼とした肌寒いシアトルの空港で、

乗り換える時にランチにアメリカンサイズのオムレツを食べたのを覚えています。

   

セントルイスで開催されたアメリカ化学会では、土田先生が招待講演され、

うわあ、英語でアメリカ人の前で発表するなんてすごいなあ、

と感心しつつ、夜はアメリカ人の先生を交えての会食で、英語がちんぷんかんぷんの私は、あまり食べた気がしなかったのと、ランチに行った中華料理屋さんが、あまり美味しくなかったのを覚えてます。

セントルイスからオハイオ州へ移動、ケースウェスタンリザーブ大学の、当時、土田研の助手だった大野弘幸先生を訪問。

大野先生は、その後、早稲田から東京農工大に転出され、学長まで務められました。あの時は、なんて背の高い先生なんだろ、やっぱアメリカじゃあ、なめられないようにでかい方がいいのかな、なんて思いましたね。

      

そして、最終目的地のニューヨークへ。

ホテルはミッドタウンのヒルトン

朝食を食べたときに、目玉焼きとハム、みたいな軽い朝食で17ドル

当時は1ドル250円ですから4250円。こんな物価の高い街でどうやって暮らして行けばいいのかと、

ちょびっと心配になりました。

  

昼前だったか、

ヒルトンホテルの前に一台のグレーの大きなアメ車が止まり、

大柄の日本人男性が降りてきて、

Welcomと手を差し出しました。

Yoshiyuki Okamoto先生と初めて会った瞬間です。

先生も、当時、私がいっちょうらのネイビーのスーツを着ていたのを覚えておられます。

      

それからの5年間、

私の博士課程の指導教授として、

研究のご指導をいただいたわけですが、

学部を出たばかりで、

英語はからっきしできず、

専門の勉強もロクにしてなかった

単に好奇心が人一倍旺盛で、

俺が真剣にやったらなんでもできる

超自信過剰なだけが取り柄の

バカもののご指導はさぞかし大変だったと思います。

5年間のご指導のおかげで、無事に博士号取得、

33年前の3月16日に山形大学の助手として採用いただき着任することができました。

    

Okamoto先生は、

学科の教授たちからはYoshiと呼ばれ、

とても愛されてました。

先生はいつもにこやかで、笑いが絶えず、

私は5年間、一度も叱られたことはありませんし、

誰かを叱っているところも見たことがありません。

怒鳴っているOkamoto先生と言うのは、私には想像すらできません。

   

とにかくジョークがお好きで、

研究室で友人たちと油を売っていても、

廊下からゲラゲラ笑い声が聞こえるので、

先生が実験室に近づいて来られるのがすぐにわかったので、

実験をするふりをしたり、

とにかく楽しい思い出しかないんです。

  

短気な教授だと、

ディスカッションの最中に怒鳴ったり、

本を投げつけたり、

そんな話はよく聞きましたけど、

Okamoto研は笑いの絶えない自由な雰囲気の研究室でした。

   

それはOkamoto先生の性格、それに大阪のご出身だからかもしれません。

大学卒業後すぐに貨物船で渡米され、

インディアナ州のパデュー大学へ留学。

後のノーベル賞受賞者であるH. C. Brown教授の元で博士号を取得されました。

有機化学の分野で、Brown-Okamotoの式というのがあるくらいです。

ノーベル化学賞受賞者の鈴木章先生や根岸英一先生は同門でOkamoto先生の弟弟子にあたります。

  

その後、MITで博士研究員として研究され、

ニューヨーク大学で教員としての一歩を踏み出されました。

今から70年ほど前のことでしょうか。

   

Okamoto先生の学生時代のお話を聞くと、

私がニューヨークでした苦労など、足元にも及びません。

まだまだ差別のある時代に、しかも中西部という保守的な土地で、

英語にも苦労されたようです。

  

そんなこともあってか、

研究室での私と先生の会話はずっと英語でした。

日本語を使うと、私の英語が上達しないとの配慮でしょう。

そのおかげで、私の英語力はぐんぐん上達し(?)、

2年後にはペラペラになりました(?)。

      

そんなOkamoto研究室での5年間で得たものといえば、

一言で言うと、自信、でしょうか。

あの厳しいアメリカの大学院で博士号を取得した、

専門知識ゼロからでも必死で教科書や論文読めば専門家に負けない

英語なんてどっからでもかかってこい。

5年間のニューヨーク生活で私は突然変異し、生まれ変わりました。

日本を出るときは、早稲田の応用化学科を下から3番で卒業した劣等生が、

5年後は自信満々の新進気鋭の若手研究者として帰国したのですから、

ご指導いただいたOkamoto先生は、私にとってはニューヨークの父親とも呼べる存在です。

      

山形に来てからも、

外国での国際会議で同席させていただいたり、

ニューヨークも学生を連れて何度も訪問しましたし、

もちろん山形にもおいでいただきました。

この30年、私の有機ELの研究も順調で、明るくなりました、白く光りました、パネル試作しました、

なんて成果を話すと、ニコニコして喜んでいただきました。

そんな師匠の姿を見るのが、弟子として嬉しかったです。

        

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アメリカには定年がなくて、Okamoto先生も慶応の小池先生のグループとフッ素系ポリマーの研究を継続され、最近訪問させていただいたときも、研究についてOHPを用いて話していただきました。

90歳を越えてもバリバリの現役の研究者って、日本に何人いるでしょうか。先生に会うたび、日本の定年制度って一体なんだろう、と思います。頭がシャープな人は年齢に関係なく、アイデアって溢れ出てくるんですよね。 

   

実は、

私の家内もOkamoto先生にご指導を受け、博士号をいただきました。

研究室の後輩なんです。

デートはセントラルパーク、って人に言うとロマンチック〜と言われますが、

実際には一度しか行ってません。

  

そう言うことで、

娘も小さい頃から可愛がっていただき、

家族みんなにとって、Okamoto先生は第二の父親そしておじいちゃん、なんです。

娘にとっては両親の恩師がノーベル化学賞受賞者の弟子で、父親は材料が世界を変えるんや!、なんて話をいつもしてるので、それに感化され国立大学の工学部、しかも工業化学科に進学しました。

そんなわけで、

Okamoto先生が、きっと先生にとっては宝物であろう恩師のBrown先生ご自身が学生の時に使ったという有機化学のサイン入り教科書を娘にプレゼントしてくださいました。

なぜに私にくれなかったのかと、少々不満に思いつつ、娘から預かっとくからと言って取り上げましたけどね。

       

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そんな、私の恩師であり、父親みたいな人であり、尊敬する科学者でもあり、

人として敬愛するOkamoto先生が、一昨日、95歳で人生の幕を下ろされました。

    

つい先週も奥様の90歳の誕生日のお祝いパーティの写真を頂いたのですが、お寿司を前にしてお元気そうだった先生。

痛みも苦しみもなく、静かに息を引き取られたとのことでした。

  

これからは、この時期になると思い出すでしょう

Okamoto先生のこと。

          

Thank you, Yoshi!

and 

See you again!

    

  

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